「分析機器産業と NanoTerasu(ナノテラス)」という未来
1. はじめに
放射光施設と電子顕微鏡を比べて、どちらが優れているのか? 中性子施設、NMRとの比較はどうか? 新しい大型施設の建設や改修の検討が始まる際に、ユーザー間でよくあがる話題である。それぞれ、互いの優位性を主張しあう場で、時に、狷介な議論の応酬に当惑したこともある。多額の予算が施設建設に必要とされるのであるから、そのための真摯な主張は大いになされるべきである。しかし、35年前に高分解能電子顕微鏡を用いた研究で学位を取得し、大学の研究者として放射光、中性子を活用してきた者として、NanoTerasu(ナノテラス)の運用が始まった今、共創という視座に立った戦略的な議論が必要と考える。異なるプローブとしての相補性、施設と実験室系の利便性の違いを生かした共創は、課題解決の場で、最も強力な武器となるからである。
ナノテラスとは、東北大学青葉山新キャンパス(仙台市内)に建設された3GeV高輝度放射光施設のことである1)。我が国の科学技術の進展、国際競争力の強化、リサーチコンプレックスの形成をミッションとして、SPring - 8/SACLA(スプリングエイト/サクラ)と共にイノベーションを牽引する施設として2024年4月1日に運用開始された。共用利用は、国の主体である量子科学技術研究開発機構(QST)のもと、登録利用施設促進機関である高輝度光科学研究センター(JASRI)により2025年3月から開始される予定である。ナノテラスには、共用に加え、コアリション(有志連合)に基づくユニークな産学共創の専有利用制度が初めて加わる。そのコアリション利用が、共用に先駆けて4月9日から始まった。最初のユーザーとして、企業(戸田工業、住友ゴム工業、TDC、マルニ食品)や学術(東工大、東北大他)が、コアリションのもと、7本のビームライン(回折、散乱、イメージング、分光)で利用実験を展開した。そして、企業の経営層とともに、実験ホールで計測に取り組む様子が、TV、新聞の多くのメディアの取材を受け、報道された。国の大型研究施設の見る、“新たな景色"である。
ナノテラスの施設としての先端性、卓越性は、KEK及びSPring - 8/SACLAで培われた加速器・光源技術と共に、光学系、制御系、検出器の他、数多の分析機器を結集して成し遂げられたものである。それを、我が国の主だった企業、大学・国研が建設資金の一部を拠出し、コアリション・システムで利用するのである。その数は企業が150、大学・国研は10を超える。
そして、ナノテラスに隣接するサイエンスパークでは、放射光では解決できない課題に、電子顕微鏡やNMR等との共創で取り組む構想の検討も始まっている。それは、リサーチコンプレックス形成の一環であり、ナノテラスとサイエンスパークは、いわば、分析機器産業にとってのショーケースとなりつつある。その道の先にある、ナノテラスを起点とするイノベーション・エコシステムで、分析機器産業は、なくてはならないプレイヤーの一つになると考える。本稿は、その視座に立って、ナノテラスについて詳解する。
2. 安定した高輝度な光源性能
まず、ナノテラスの光源性能について紹介する。図1の写真の円形の建物が、ナノテラスである。放射光施設では、加速器を使って実験室のX線装置の10億倍もの明るさを有するX線を発生させることができる。直径170mのドーナツ型の屋根をもつこの施設は、SPring - 8/SACLAでの研究開発の成果に基づく最先端の加速器技術で建設された。
その加速器技術は、MAX IV(スウェーデン;3GeV)、ESRF - EBS(EU;6GeV)、SIRIUS( ブラジル;3GeV)に続く、世界で4番目の低エミッタンス電子ビーム蓄積リングに代表される。施設は、国の主体であるQSTによって整備された直線の線型加速器と、リング形の蓄積リングから構成される(図2)。線型加速器は、110mの長さで、3GeVで6GHz高周波加速により電子集団を光速近くまで加速する。加速された電子集団は周長349mの蓄積リングに、蓄積される。光速近くまで加速した電子の集団を挿入光源と呼ばれる磁石列で進行方向を繰り返し曲げられることで、制動を受け放射光を発生させる。光源となる電子集団を、低エミッタンス(発散を小さくする)の電子ビームとして蓄積することで、発生する放射光ビームの輝度を高めることができる。加速器の詳細は他の解説に譲ることとして2)、エミッタンスについて述べる。
図2にあるように、スプリングエイトの電子ビームのエミッタンスは2.4nm・radであるのに対して、ナノテラスは、半分以下の1.1nm・radを実現する2)。表中に、ナノテラスとほぼ同じ周長350mのフランスのSOLEILのエミッタンスが3.7nm・radと示してある。このエミッタンスの違いは、ナノテラスにSOLEILと比べて10倍の輝度の高さをもたらす。世界の多くの放射光施設は現世代型で、まだ、ラティスに有する偏向電磁石の数は2つである。しかし、APS(米国;7GeV)、SLS(スイス;3GeV)、SPring - 8 -II(日本;6GeV)など、世界中で次世代型への改修及び検討が急ピッチで進んでいる。電子ビームの低エミッタンス化が、次章で示す「ナノの見え方」を変えるからである。
図3の右図に、Web上にある、ナノテラスの運転状況(4月17日14時)を示した3)。MBSOpenとあるのは、Main Beam Shutter Openの略である。図では10本すべてのビームラインがMBS Openとなっている。3本の共用ビームライン、7本のビームラインすべてに光が供給されている。“ナノの見え方"を変えるには、まず、強度の殆ど変化しない光源であることが必須である。それを、電子ビームを蓄積リングに逐次入射して常に電流を一定に保つ「トップアップ」運転で実現した。左図のESRFのほぼ同時刻の鋸の歯状の電流値の変動の状況との比較で、光源の安定性の秀逸さは明白である。ナノテラスでは、世界トップクラスの信頼性の高い放射光計測が可能であることを示している。
3. 多彩な軟X線、テンダーX線、硬X線ビームライン
発生した放射光は、図3にも示した初期整備の、10本のビームライン4)に導かれて様々な計測が行われる。ビームラインは最大28本まで建設が可能である。国側が3本の共用ビームライン(軟X線)、地域パートナー側が7本のコアリションビームライン(軟X線3本、硬X線4本)である。
表1に、利用を開始した7本のコアリションビームラインについて、測定手法、利用できる光のエネルギー範囲などを示した。特定の元素の情報を得るためには、その吸収端のエネルギーの放射光を選択して計測をする。BL14Uでは、Fe、Co、Niのスピンや磁気構造を可視化することが可能である。図4にBL14Uの概要と市販のネオジム磁石の磁区の可視化の事例を示した。白黒像は軟X線吸収コントラスト像でFeがよく見えるエネルギーの軟X線を用いて走査イメージを観測したものである。鉄の含有量の多いところほど明るくなっている。カラー図は、放射光の円偏光の向きを変えた走査イメージから、磁極の分布を、青(N極)、赤(S極)で着色し、磁区の分布を100nmの画素の分解能で観測(計測時間10分)したものである。現在、空間・時間分解能の向上が検討されている。ネオジム磁石の性能向上、サマリウム鉄系磁石、ボンド磁石などの次世代の永久磁石の開発だけでなく磁気情報デバイス、スピントロニクスの研究開発への応用も期待されている。
4. 計測・計算融合、“見ただけ" で終わらせないために
図4に示したように、高輝度放射光の特徴は、従来の放射光X線を用いた分析法に加え、不均一な構造と機能の相関をイメージングできるようになることである。図5は、10数年前の事例であるが、企業のタイヤの製品開発が可視化により、どう変わるかを例に示している。高い耐久性と強度を持つタイヤ材料の開発に、従来は、小角散乱データを基に推定したモデル構造を用いていた。しかし、最近の放射光施設では、レーザー光のように光の波の山と谷が揃った干渉性(コヒーレンス)の高いコヒーレント光を用いてナノスケールの構造を可視化できる5)。図中に、ゴム中のフィラーと同程度のサイズの30 nmのシリカの粒子の分布が明瞭に可視化できているのがわかる。この可視化の結果と、ゴムの変形によるフィラー周りからはじまる破壊進展のシミュレーション6)により、高い耐久性と強度を持つフィラーの分布や密度、界面の構造について設計指針を得ることができた。この様なアプローチは、フィジカル空間でのナノの可視化と、デジタル空間での計算科学による、デジタルツインの形成であり、課題解決を加速・強化する研究開発のDX化ともいえる。2023年の1月に、東北大学のグリーン未来創造機構に、グリーンクロステック研究センター(岡部朋永センター長)が発足した。そして、ナノテラスから得られたデータを製品開発に直結させるデジタル化の取り組みが、青葉山キャンパスで始まっている7)。
5. 産学共創を促進するコアリション形成
ナノテラスは、産業界を巻き込み、研究力、国際競争力の強化に貢献し、リサーチコンプレックスの形成を加速する事がミッションとして与えられている。そのため、「官民地域パートナーシップ」という新しい施設整備の方法が導入された。国側の主体であるQSTとともに、光科学イノベーションセンター(PhoSIC)を代表とする地域パートナー(宮城県、仙台市、東北大学、東北経済連合会)が役割を分けて施設の整備を行った。図6は、その役割分担を示したものである。従来の国側の役割とは別に、地域パートナーが新たに設定され、基本建屋と7本のビームラインを建設する。財源は、自治体及び、コアリションに参画する企業や大学の機関により拠出された資金を活用する。施設にコミットする多彩なプレーヤーからの資金源を活用する整備・運用手法であり、民間資金を活用した今後のロールモデルになると言われている。
より多くのプレーヤーにナノテラスを活用してもらうためには、これまで高いと言われて来た放射光活用のハードルを低くする利用スキームが必要となる。それが、図6に示した“コアリション(有志連合)"コンセプトである。放射光の非専門家(企業・学術)が、放射光及びサイエンスの専門家(学術)と競争領域と協調領域を分けて、それぞれの役割に専念できる“コアリション(有志連合)"を形成する考え方である7)。
この“コアリション"は、従来の産業利用とは、全く考え方を異にするものである。単なる“先端計測分析"がゴールではない。計測結果を基に計測計算融合などにより課題解決する産学共創がゴールである。そのために、資金を拠出した放射光の非専門家(企業・学術)が、放射光及びサイエンスの専門家(学術)と競争領域と協調領域を分けて、それぞれのプロが役割に専念し課題解決できるよう、図7のコアリション・マッチングを行う。図中にあるように、10を超える学術機関も、建設資金を拠出して、コアリションメンバーに加わった。それぞれの機関は、放射光分野、モノづくり、データ科学、AI等の卓越した研究人財リストを基に、メンバー企業の様々にコアな課題解決とのマッチングに参加する。
以上のように、共用・成果公開をベースとした既存の産業利用の垣根を超え、「計測(見る)施設」から、データ科学・AI・モノづくりなどの異分野融合を展開する「課題を解決する施設」への革新を図る。
6. 分析機器産業との共創
第3期戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)の課題「サーキュラーエコノミーシステムの構築」(担当研究推進法人ERCA)での活用が、ナノテラスに隣接するサイエンスパーク内の青葉山ユニバースに拠点を置き、本格的に始まった8)。このプロジェクトでは、再生プラスチック材の物性と構造計測、計算およびデータ駆動科学の融合による再生材の品質分析・品質改善を行い、循環性向上に必要な再生材品質データバンクを構築する。図8に示した様に、物性データを計測するため、様々な分析機器が青葉山ユニバースに設置されている。構造データは、ナノテラスのBL08Wの3分岐されたビームラインの一つに設置された、小角X線散乱装置で計測される。ここでは、実験室でも使用されている市販の装置を、放射光用に改造し導入している。ハード・ソフト面での企業各社が所有している市販装置との連携の容易さから、ユーザーから高い評価を受けている。一方、X線CTの計測については、まずは実験室で市販の装置を使って行っている。プロジェクトの進行によっては、ナノテラスとの連携も必要となる事であろう。
ナノテラスのコアリションは、できたばかりである。ナノテラスの活用をどう展開していくかについて蓄えられるべきものは、まだ蓄えられていない。コアリションメンバーが、第一線に並んで、それぞれの役割分担と課題解決のゴールを模索しながらナノテラスの利用を始めている。毎年のように施設の高度化を求められるビームラインが縦糸であるとすれば、分析機器・分析技術には、横糸としてビームラインを横断する高度化を大いに期待するところである。国産の新しい検出器、CITIUSの開発はまさにその好例であろう9)。また、SIPの事例で紹介したように、異分野間の融合するプロジェクトの場は、様々な分析機器・分析技術の高度化と市場開拓プロモーションの機会となる。ナノテラスとサイエンスパークが、分析機器・分析技術の高度化と新たなニーズ開拓との循環を生む、エコシステムとなることを期待している。