「におい」を解析する
1.はじめに
「におい」を感じるとはどういうことでしょうか。においを感じるプロセスは、大きく図1 のようにとらえることができます。ご存知のように、人はにおいを鼻でとらえていますが、においの正体は、におい分子という有機分子です。このにおい分子が、鼻にあるにおい受容体 (におい分子受容体) に到達し (プロセスA) 、そこから信号が神経を伝わって (プロセスB) 脳でにおいを認識しているのです。つまり、においを感じるための原点は、におい分子です。
この世の中には、自然界を含めてさまざまな香気素材があります。ミカンなどの食品のにおいや化粧品のにおいそしてごみの悪臭など。どれも1つのにおい分子ではなく複数のにおい分子が組み合わさって、素材特有のにおいをつくり出しています。したがって、それら香気素材の香気の特徴を探るには、どのようなにおい成分がどのくらいの量で含まれているのかが重要になります。つまり、素材に含まれている多くの成分の分析が必要なのです。
その分析に多用されているのがガスクロマトグラフィー (GC) です。そして、含有する成分がどのようなにおい分子であるのかを知るために、核磁気共鳴分析法 (NMR) や質量分析法 (MS) が使われています。
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図1 においを感じるプロセスの概略
近年の分析技術の進歩には、目を見張るものがあります。より正確な、そしてより微量な成分の検出が可能になっています。このような分析技術の進歩は、香料の分野に限らず物質を扱うあらゆる分野に言えることです。分析技術が進歩すればするほど、そこから得られるデータは膨大になります。そのデータをどう解析するのか。その解析の仕方によっては、より多くの知見を得ることができます。
2. 多成分からなる素材香気をどう分析するか
香気素材の香気の特徴を探るには、どんな成分が含有しているかが重要であることは言うまでもありません。特に香りの分野では、においはごく微量のにおい分子の存在が大きく素材のにおい発現に関係します。そのため、より微量の成分を検出することに多大の労力が使われています。もちろん、そこからは非常に有用なデータは得られています。しかし、素材に含有する成分の分析だけを行っても、においの原因成分の特定はなかなかできないことが多く、そのためいろいろな分析技術の工夫がされています。
このような工夫も必要ですが、ここで原点に戻って考えてみることが大切です。図1 のように、においの認識の始まりは、におい分子とにおい受容体との出会いです。では、におい分子の受容の仕組みはどうなっているのでしょうか。
2-1. 実際の素材を扱うため必要な基礎的研究データ (においの受容機構)
近年のにおい受容機構についての研究から、におい分子とにおい分子受容体の関係は単純な1:1対応になっていないことがわかっています。図2のように、1つのにおい分子を複数の受容体が異なった強さで認識しています。さらに、構造の類似した2つのにおい分子が共存した場合、におい受容体にお互いの分子が影響しあいます (図3) 。
実際の素材は、多くの構造類似のにおい分子を含んでいるため、素材のにおいは、単純に含有しているにおい分子のにおいの足し合わせにはなりません。素材のにおいは、相互に影響しあっているにおい成分からなるグループの集まりととらえることができます (図4) 。
このような知見をもとに、素材のにおい成分の分析を考えると、単に含有成分の精密な分析をするだけでは、得られたデータと素材のにおいとをつなぐことができないことがわかります。特に重要なのは、におい分子間の相互作用をどう扱うかです。
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図2 におい分子を認識する多数のにおい分子受容体
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図3 におい分子とにおい分子受容体からのにおい発現の仕組み
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図4 多くのにおい成分からなる素材の複合臭の構造
2-2. 分析方法の選択
多くのにおい成分からなる (複合臭) 香気素材の分析に、におい受容機構を取り入れた手順を図5に示します。私が提案しているこの手順の具体的なアプローチは、図6のようになります。
例えば、スターアニスという中華料理によく使われているスパイスの香気の特徴についての分析ですが、この素材の香気成分のほとんどは、 Anethole という1つの成分が占めています。
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図5 におい受容機構を考慮した素材の複合臭の解析 (香気プロフィール解析) の手順
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図6 におい受容機構を考慮した素材の複合臭の解析 (香気プロフィール解析) の具体的なアプローチ
確かに、このにおい分子のにおいは素材のにおいに近い。しかし、図7のように3種類の異なったにおい成分捕集方法 (MMSE 法とは、ヘッドスペース法のひとつで、ほかのふたつの方法に比べてより低沸点のにおい分子の捕集が可能です) を用いることで、素材の香気に対する異なった類似性の捕集物が得られます (図6の (1) のアプローチ) 。
この得られた捕集物についてのプロトン核磁気共鳴分析法 (1H NMR) によって、素材香気にかかわるもうひとつの成分の存在が明らかになりました。単に含有成分を分析するのではなく、素材そのものの香気 (におい分子同士の相互作用が反映されています) の違いと分析データとを関連づけることで、このような新しい知見が得られたのです。
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図7 スターアニスの主要2成分の比率と香気の関係
もうひとつ、例として乳香 (frankincense) の分析についてご紹介します。
図8のように1H NMR の分析から、重要香気成分群の存在が示唆されました。室温でのヘキサン抽出物と高温の水蒸蒸留法の抽出物では、含有する成分は同じでもその含有割合が異なっていました。この両抽出物の比較から、図8に示した重要香気成分群の存在が明らかになったのです。この重要香気成分については、分留によってこの成分群を含む分留物を得ることができました。そのにおいはまさしく乳香のにおいに非常に似ていました。しかし、その分留物から、これらの成分を単離したところいずれも弱い脂肪臭しか示しませんでした。まさしく、図3に示した構造類似のにおい分子の相互作用のために、これら成分が組み合わさって素材の香気を作り出していると考えることができます。におい受容機構を取り入れた分析によってはじめて判明したことです。
ここまでの分析では、NMR を用いました。NMR はのちに述べるガスクロマトグラフィー分析 (GC) に比べて、直接の分子構造に関する情報が得られるメリットがあります。しかし、含有成分の数が多くなると、NMR の分析では、香気特性の解析は難しくなります。その分析には、GC-MS 法が必要になります。このように、含有する成分の状態に応じで分析方法を変えることも重要なことかと思います。
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図8 乳香 (Frankincense) のヘキサン抽出物と水蒸気蒸留物の香気と成分の1H NMR による比較
2−3. ガスクロマトグラフィー分析データをどう取り扱うか
図9は、山奈という香気素材のヘキサン抽出物のGC-MS 分析での結果です。通常の分析では、この分析データを、保持時間の順番に表にして、解析がされています。この方法でも十分なこともありますが、うまくいかない場合もあります。 その場合は、素材の香気が単一成分からつくられているのではなく、におい分子間の相互作用が関係していると考えます。つまり、におい受容機構をこのGC-MS データの解析にも取り入れてみる。では、どのようにすればいいのか。図3で説明しましたように、相互作用しうるにおい分子は、構造の類似した分子同士です。そこで、図10 のように構造類似のにおい分子にグループ分けして、解析するということです。
例えば、山奈の香気が時間とともにどのように変化し、その際のにおいの変化にとって重要な成分群は何かを見つけるには、最初の状態のサンプルのGC-MS データと変化後のGC-MS データを比較する際に、図10 のようにグループごとに比較して、どのグループが変化しているかを探るというものです。変化しているグループがあれば、そのグループを構成している成分が重要ということになります。
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図9 山奈ヘキサン抽出物のGC-MS 分析結果
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図10 山奈ヘキサン抽出物のGC-MS 分析データの再構築
もうひとつ、緑茶の香気特性についての検討結果をご紹介します。タイ緑茶には中国種からつくられたものとアッサム種から作られたものがあり、この両者の香気は明確に異なっています。図11にアッサム種から作られたタイ緑茶のヘキサン抽出物のGC-MS 分析結果を示します。緑茶には非常に多くの成分が含まれています。両抽出物のGC-MS データのにおい受容機構を考慮した比較検討結果が図12 です。アッサム種で含まれている成分の欠如がそのグループのにおいの特徴を変え、それらにおいの変化したグループが合わさったことで、アッサム種と中国種の香気の違いが生み出されたと考えられます。
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図11 アッサム種タイ緑茶のヘキサン抽出物のGC-MS 分析
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図12 アッサム種タイ緑茶と中国種タオ緑茶の香気の違いと成分の関係
3. おわりに
私の研究結果をもとに機器分析の解析に、他分野で得られた知見を取り入れる重要性について説明しました。このことは、においの分野に限らず、多くの分野の分析において大切なことかと思います。
今後ますます分析技術の能力は高まっていくでしょう。それに伴って得られるデータも膨大なものになります。そうなると、ますます重要なのは、どのようにしてデータをとるのか、得られたデータをどう解析するのかではないでしょうか。まさに、人が果たす役割はここにあるのではないかと思います。
埼玉大学大学院理工学研究科 准教授
長谷川登志夫
2019年11月6日 公開